ハチ公と上野博士の物語

 ハチ公は飼い主が急死した後も、渋谷駅に毎日かよって、死ぬまで10年間も待ち続けました。


 生粋の秋田犬として秋田県大舘市で生まれたハチが、生後50日で鉄道で小荷物として運ばれて東大農学部の教授であった上野英三郎博士のところに来たのは、1924年(大正13年)の1月でした。大の犬好きであった博士は、体の弱かったハチを自分のベッドの下に寝かせるなど細心の気遣いをして育て大いに可愛がり、大学や渋谷駅にいつも送り迎えをさせていました。1925年(大正14年)5月21日、博士が大学で急死して突然の別れが訪れたのは、ハチが上野に飼われ始めて17か月の時でした。ハチ公はその後、朝夕に駅に通い、改札口から出てくる人々の中に上野英三郎の姿と匂いを求め続けました。ハチの心には、愛情に溢れる飼い主に可愛がられた日々の記憶が消えることがなかったに違いありません。


ハチ公は晩年、有名になってから「忠犬」と呼ばれるようになり、戦争と軍国主義の時代にあって恩を忘れぬ犬として修身教育に利用されました。ハチ公を世に知らせた社会的な生みの親で犬の愛護と研究に生涯を捧げた斎藤弘吉氏は次のように述べています:


「死ぬまで渋谷駅をなつかしんで、毎日のように通っていたハチ公を、人間的に解釈すると恩を忘れない美談になるかも知れませんが、ハチの心を考えると恩を忘れない、恩にむくいるなどという気持ちは少しもあったとは思えません。あったのは、ただ自分をかわいがってくれた主人への、それこそまじりけのない、愛情だけだったと思います。ハチに限らず、犬とはそうしたものだからです。無条件な絶対的愛情なのです。人間にたとえれば、子が母を慕い、親が子を愛するのに似た性質のものです。」「渋谷駅を離れなかったのは、心から可愛がってくれた到底忘れることのできない博士に会いたかったのである。ハチ公の本当の気持ちは、大好きな博士にとびつき自分の顔を思いきりおしつけて、尾をふりたかったのである。」


 私たちが東大に作る像は、上野博士が迎えに来たハチ公といつもそうしていたように、ハチ公が博士に飛びついてスキンシップをしている、大喜びの愛情あふれる姿です。人と犬との素晴らしい関係を象徴する像です。

ハチ公と上野博士の歴史


1923(大正12年)11-12月頃
秋田県大館市の民家でハチが誕生
1924(大正13年)1月

東大教授上野英三郎博士のもとに汽車で送られる。

同年5月頃から、渋谷駅や大学(駒場)に、毎日上野博士の送り迎えをするようになる。

1925(大正14年)5月

上野博士が大学内で急逝。

この日、迎えに行ったハチは上野に会えず、上野の最後の着衣を置いた物置にこもって3日間何も食べなかった。

その後、毎日、朝夕に渋谷駅に通うようになる。

コラム1

上野博士には実の子がなく、ハチが博士同様に慕っていた妻の八重さんは、事情により一家の暮らした家を相続できず、大型犬のハチを飼うことができなくなり、ハチは、上野博士に恩のある植木職人に飼われることになった。

1932(昭和7年)

秋田犬の保存運動をしていた研究者の斎藤弘吉氏が、渋谷駅に毎日通う老犬のハチのことを朝日新聞に投稿して記事になり、ハチ公が世に知られることになった。

1934(昭和9年)

渋谷にハチ公の銅像ができる。

コラム2

人々の募金によって作られたこの銅像は、その後、戦争のための金属供出で溶かされ、わずかな金属塊となった。戦後に2代目として作られたのが現在の渋谷ハチ公像である。

1935(昭和10年)3月8日

ハチ公、渋谷にて死去。